12世紀の前半に、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として建立されます。
それに費やした期間は30年以上です。
1431年には、プノンペンに王都が移ると、この寺院は放棄されてしまいます。
しかし、それから100年以上が経過した後に再発見されます。当時まだ未完成であった第一回廊に彫刻が施され、さらに、仏教寺院へと改修され、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えました。
1972年、カンボジア内戦が起きます。カンボジア王国が倒れ、言わば正式な政府が存在しない状態が続きました。
この内戦を契機に、これまでアンコールワットを管理していたフランス極東学院(※フランスの機関が元々、この地を支配していた)が、カンボジアの地を離れてしまいます。
そんな中、カンボジアの政党の一つ、残虐行為で知られるクメール・ルージュは、手薄になったこの地を襲い、仏像の首を次々にはねていきます。
1979年、このクメール・ルージュが政権を追われ、アンコールワットに逃げ込むようになると、この場所はさらに軍事的な意味を持つようになりました。現在では、各国の協力による修復が行われていますが、内戦による弾痕もまだ一部では、残っています。